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コジオルの歴史

1927 - 1928
1927年11月27日、KOZIOL社の創設者であるベルンハルト・コジオルは19歳で象牙細工の会社を設立します。
彼がストーブのそばの仕事机で、クラシカルな花と動物をモチーフにした象牙彫刻の製作を始めたのがKOZIOL社の始まりです。

 

1930-1931
世の中は、世界大恐慌の影響で最悪期を迎え、ドイツ国内だけで失業者が600万人を越える状態でした。
そんな状況下において、ベルンハルトの忍耐は賞賛されるべきものでした。
反対する者が多い中、彼は従業員を増やし、生産力をアップさせたのです。また、ミヒェルシュタットにあった古い農家屋を全額自己資金で改築し、「本物を造る」為のアトリエ工房をオープンさせます。
ここで、彼らはバラ、タンポポ、エーデルワイスなどの花や、エキゾチックな動物をモチーフにしたモダンなアクセサリーを次々と発表していきます。

 

1932-1933
会社設立から5年後、従業員は30人に増え、収益は132,000マルクを計上しました。
この頃から既に注文の半数以上は海外からのものでした。

 

1934
1930年代は、プラスティックにとって正に革命的な時代でした。
キッチン産業での多用が追い風となり、この新素材の秘める高い可能性が徐々に認知されるようになったからです。
KOZIOL社でもプラスティックの利点を生かし、ブラシやブローチ、ボタンなどの製造を始め、急成長する事となります。
そのきっかけとなったのがライプツィヒで行われた展示会への初出展でした。ここで大きな反響を得て出展は大成功を収めます。
すぐに注文が殺到し、売上げは倍増しました。
この時に培われたビジネスリレーションが、後の数十年間、KOZIOL社に大変な恩恵を与える事となりました。
原材料の象牙からプラスティックへの転換は、ハンドメイドからマニュファクチャリングへと変遷した産業革命に匹敵するほどのすばらしい出来事でした。

 

1936-1937
移転したアトリエ工房でしたが、日に日に増える従業員でぎゅうぎゅう詰めになっていきます。

 

1940-1941
当時、装飾アクセサリーの生産は最盛を迎えており、KOZIOL社も業績の拡大に伴い150人以上の従業員を引き連れ、新たな生産拠点へと移転することとなりました。
拡大移転に伴い順調に業績を上げていくと思われた会社経営ですが、戦争の影響は彼らにも不安となって圧し掛かってきていました。
しばらくして軍部よりドイツ冬季救援物資バッチの大量生産注文が入り、一時的に装飾品の製造を中止し、軍需関連用品の製造へ転換することとなります。

 

1942-1943
多くの企業が戦争による影響を受けたこの時期、KOZIOL社もまた他の企業と同じく不幸な運命をたどることとなります。
軍備に必要な電子部品や、起爆剤などの軍需用品の生産、そして徴用により多くの従業員が戦地へと派遣されていったのです。
男性従業員は40人にまで減り、生産の大部分は女性によりまかなわれる事となりました。
この時に徴兵された従業員のうち、実に20人もの人が再び戻ることはありませんでした。

 

1945
第2次世界大戦が終結。
KOZIOL社は社屋を米軍に兵舎として提供していたため、幸いにも大部分の建物や設備に被害を被る事無く、すぐに操業を再開させる事ができました。
ピストルのハンドルや、制服のエンブレムなど、戦後駐留していた占領軍のための物資がその中心となりました。
プラスティックの歴史においても、第2次世界大戦はターニングポイントでした。
兵器開発や軍事関連においても、重要な合成素材の分野では徹底した研究開発が行われ、短期間のうちに多くの有意義な発明がなされました。
例えば、飛行機のコクピットに使われたPMMA(plexiglass:合成樹脂ガラス)は、KOZIOL社製作によるものです。
この素材を用いて、ブローチ、ブレスレット、ボタン、ブラシといった様々な生活に密着した雑貨が生産される様になったのです。

 

1946-1947
戦後まもなく、ドイツ経済は壊滅的な状況でした、多くの人々が貧窮に屈しており、これらに立ち向かう為、KOZIOL社では多くの避難民を採用することで彼らに仕事を与え、また生活用品を生産し続けました。
KOZIOL社の生産したブラシやボタンなどの日用品は人々によって物々交換され、手押し車やソーセージなど何にでも交換されたそうです。

 

1948
ドイツ連邦共和国と、ドイツ民主主義共和国が創立。
1948年からフランクフルトフェアに出展者として参加するようになります。
そして特筆すべきは、KOIZOL社は、第1回の春のフランクフルトフェアから現在に至るまで、絶え間なく参加している唯一のメーカーだということです。

 

1950
こんな逸話が残っています。
ある日ベルンハルトが愛車のビートルで雪道をドライブ中に誤って雪だまりに突っ込んだ事がありました。
その時ビートルのリアウインドウからみえた雪景色が彼に"Dream Globe"発売への大きなヒントを与えたそうです。
美しく綺麗な雪が降る中、3匹のトナカイがたたずむ姿はまるで夢のようだったと彼は語っています。
Koziol Dream Globe は、瞬く間に世界中に広まり、もっとも夢のあるアイテムの1つとして現在も高い人気を誇っています。

 

1951
西側諸国の自由経済市場が西ドイツの経済成長の基盤となり、国内の景気も徐々に上向きになって行きます。
それはKOZIOL社にとっても同じことで、国内景気の上昇と供に会社の売上も伸びていきました。
そんな中、早い段階からドイツ観光業の再燃に目をつけたKOZIOL社は、お土産物の市場へ参加することとなります。

 

1952
25周年を迎え、記念事業として社史を出版する。

 

1953
会社のロゴマークを一新、新しいシンボルの誕生です。
そのモチーフとなったヤギは、現在もKOZIOL社 のトレードマークとなっています。

 

1954
お土産物ビジネスはどんどん開拓され、ポストカード・ブローチ・バッジなどのモチーフを取り入れて、お土産物向けの様々なモチーフが描写されました。

 

1956
KOZIOL社で作られた"金の鹿"よりも伝説的に人気を博した動物のフィギィアはありませんでした。
このお土産物はカナダやアメリカにも輸出され、欧州から移民してきた人たちの心を、望郷の思いで満たしてくれるものでした。

 

1957
クリスマス向けの商品として、ベルンハルトはミュージカルエンジェルのオーケストラに注目します。
その作品を依頼するにふさわしいアーティストを探し続けた彼は、ついにチロルのGroedner Vallery を探し当てます。
この作品がKOZIOL社にとって初めての、デザイナーとのコラボレーション作品となりました。

 

1959
この年、KOZIOLは、ニュールンベルグトイショーにて、テーブルルーレットやチェスなどを出展し、アメリカでの新しい販路開拓に成功します。

 

1960-1961
この頃からカスタマイズ商品の人気が高まる(カスタムメイド商品自体は1940年代から始まっていました)

 

1962
1960年代初頭、プラスティックと合成素材に関する論争が、あらゆる業界を巻き込んで沸き起こります。
そして、この社会的なムーブメントは、次第に高まっていきます。
そんな中、KOZIOL社では、この新しく湧き上がってきた問題点に対していち早く取り組み、商品改善へと努めます。
オフセット印刷や、シルクスクリーン、ホットプリントなどの最新の設備を充実させ、更には輸送ダメージから商品を保護するための発泡スチロールの製造も、社内で行うようになります。

 

1964
ミヒェルシュタットの工房は既にパンク状態でした。
勇気の要る決断ではあったが、ベルンハルトは近郊の町エルバに新しい生産拠点を設ける事にしました。

 

1965-1967
この頃、プラスティック製の家具が欧州のマーケットで大人気となります。
デンマークのヴェルナー・パントンによるプラスチック一体成型という画期的手法を用いた"Panton Chair "やフィンランドのエーロ・アールニオによる"Ball Chair"、イタリアのジョエ・コロンボ作の"Elda"などがその代表です。
プラスティック素材は既に多くの顧客達に受け入れられ、その人気は日増しに急騰していきます。
この時期既にKOZIOL社はポップミュージシャンや自然界の動植物をモチーフにした商品を製作してはいましたが、依然として、主力商品は土産物でした。
それでも、食物用ポットやフルーツボールなどの新たな家庭用品を発売する事で、少しずつ新らしい固定客を開拓していったのです。

 

1970-1972
新しくエルバに建築された工場には当時最新の設備が導入され、格段と生産効率が向上しました。
KOZIOL社のマーケットも順調に伸びていきました。

 

1978.1979
オイルショックの影響を受け、大量生産の分野は大きな打撃を受けることとなります、しかしKOZIOL社の製品は、周囲が驚くほど順調に推移していきます。
中国系オーストラリア人のバルベル・ツェンカーのデザインした、ユニークなプレートはドイツ中のどの家庭でも使われているほどに広まりました。
その人気は非常に高く、遠く海を渡った日本でも知られるところとなります。

 

1976
従来のヤギをモチーフにしたトレードマークをスタイリッシュに一新。

 

1977
創立50周年を記念したモニュメントを建立。

 

1980
創立から52年、ベルンハルト71歳のとき、彼は経営の一線から引退することを決意し、その事業を彼の息子たちに託します。
新たな経営陣の下、KOZIOL社の商品ラインナップは徐々に広がりを見せていきます。消費者の多彩な要求に答えるため、次々と魅力的な商品を開発ていきます。
キッチン用品ではハートのボウル、エッグカップ、ソルト&ペッパー容器などを、またステーショナリーでは、定規、テープホルダー、ボールペン、カードボックスなどと、KOZIOL社のターゲットは若者世代にシフトしていきます。
また当時はお土産物商品的な存在だったDream Globeを新しいフォーマットと斬新なモチーフを用いることで、さまざまなイベントに活用できるオリジナルのギフトアイテムとしてその地位を確立させます。
まさにDream Globeは最高の形で生まれ変わって帰ってきたのでした。

 

1982
発泡スチロールを素材にした独自の製品開発を求められたデザイナー,トミー・ブレンは、"BIG BANNA"をフランクフルトフェアーに出展します。
これが、発泡スチロールを梱包材料ではなく、プレゼントの商品として使った最初です。

 

1984
小説家、ジョージ・オーウェルによって描かれたこの年、KOZIOL社 の有名なネオンマグカップが発表されます。
その派手なラインナップは、,トミー・ブレン,ステファン・コジオル,トーマス・ストラーらによって手がけられたものですが、KOZIOL社のマーケットでのポジションを確固たる物にする、非常に重要な転機ともなります。
アメリカの実業家、Les Wagenheinはその商品をとても気に入り、すぐに、向こう1年分の商品をオーダーしました。
モダンなデザイン、そして若い世代をターゲットにすることで、KOZIO社は、はっきりと、次世代のマーケットに目を向けていたのです。

 

1986
ハウスデザイナー、トーマス・エッツェルは19世紀にトレンドだった原材料、半透明のプラスチックを用いて"RIO"を発表します。
このシリーズは今日においても成功しており、従来とかけ離れたそのデザインはプラスチック製品において新しいトレンドを巻き起こしました。
その後、幾度となく他のメーカーによってジョッキやボウルなどにコピーされることとなりますが、2001年カルルスルーエのフェデラル高等裁判所の盗作訴訟において、画期的な判決が言い渡されます。
RIOのそのユニークさ、斬新なデザインが全面的に承認されたのです。

 

1990
フィリップスタルクがプラスチック素材に目をつけた頃から、プラスチックが新しいブームを迎えます。
それにより、KOZIOL社も、最も重要なトレンドブランドとしての地位を確立して行き、モダンデザインがストロングポイントとなって行きます。
70年来、商品開発からパッケージにいたるまで全てを一つの工場から生み出してきたKOZIOLは正に、”Made in Germany”です。
またこの頃から、社内のみならず、社外の様々なデザイナーとのクリエィティブでエクスペリメンタルなコラボレーションが活発化して行きます。
エモーショナルな経験とクオリティーの追求が強調され、誰もビジネスを単なるおざなりなものとして捉えず、日常的に使われる物に、KOZIOL社のモットーである "ideas for freinds"を注入し、現実の商品として作り上げていきました。

 

1991
新しいテクノロジー、"Dual Colour Effect"を得、特別な機械を開発して、KOZIOL社は、テクノロジーの分野もリードして行きます。
洗濯ばさみがSEXYなもので在り得るか?その質問はデザイナー,レイナーレーンがデザインした商品"SHARKY"によって、証明されます。
Dual Colour Technologyで生み出された生意気な小さなさかな"SHARKY"は、人々の心に、その歯を刻み込ませていきました。
Dual colour technologyは次第にコジオールの原型として認知されます。

 

1992
CDラック、マンハッタンタワーがこの年のトップセラーとなり、売上はロケットのように急増しました。
KOZIOL社の商品は、まさに革新であり、その後、マーケットに出てくるいろいろなCDラックの礎を作りました。
このマンハッタンタワーは、KOZIOL社をよりデザインの世界へ向かわせ、新しいフィールドである家具・インテリアへのドアを開けさせました。

 

1994
この年、商品だけでなく、デザインプロセスにも厳しいISO9001のライセンスを取得しました。
そして、KOZIOL社は特別にエコロジー対策のできている会社として表彰を受けます。

 

1996
"TIM" and "TWEETY"は顧客に元気を与え、つまらないキッチン雑用を泡だらけの楽しみに変えていってくれました。
なにも面白くないものから、ファッション性の高いものをつくるアイデアは、その後他社によって度々コピーされました。
今日でも、デザインされたブラシは目にしますが、しかしながら、自立する洗い物ブラシはKOZIOL社の"TIM"と "TWEETY"以外にありません。
コピーライトの法律によって、KOZIOL社の商品は守られています。

 

1997
デザイナーとマーティングに関わる人たちとの弛まない交流によって、マーケットに対する知識やトレンドに対する先見性は磨かれていきました。
デザインとコミュニケーションの部門は常に新しい人たちを迎え入れ、大きくなっていきます。
Hints of Viennaによるワインシェルフ"SET-UP"の壮大なタワーを作って、KOZIOL社は70周年をフランクフルトアンビエンテ会場のギャラリアで盛大に祝いました。
クラシカルなRIOシリーズに端を発した、トランスペアレント・ワールド・コレクションは世界中をセンセーションに巻き込み、KOZIOL社をよりポピュラーにしました。
コンテンポラリーな精神がプラスチックのKOZIOLスタイルによって、文字通り型どられて行きました。また、新しいブルーのKOZIOLのロゴが紹介され、全ての商品に使われるようになります。
また、モットーである"ideas for friends"はブランドの認知を促進するための前提条件として、より一層使用されるようになりました。

 

1998
例えばBalduin加湿器のように、興味を示されない日常品が、KOZIOL社Lによって、最大の興味の的となっていきます。
KOZIOL社はブランドとして躍進して行きます。
ベルンハルト・コジオルの死の後、弟のステファンは会社を引き継ぎます。"Make Better Mistakes"をモットーに、試行錯誤を重ねます。
また、この頃、世界的に有名なデザイナーAlessandro Mendini、Mariscal、Peter Naumann、Platt'n Youngなどとの交流が始まり、重要なインパルスを会社に与えました。

 

2000/2001
ミレニアムを向かえ、完璧なラインは、完璧に改訂されました。
この頃から、商品は高品質なアクリルで作られ、形はよりKOZIOLらしさを強調したものとなっていきます。
Office@Homeラインの商品に見られる形は全く新しいファッションでした。
小売店頭でもKOZIOLの商品が一層見られるようになり、新しいプレゼンテーションの方法やパッケージのコンセプトに、セールスポイントととして、高い注目を集めるようになりました。
モットー:>>Ideas of friends、はセールスパートナーと接するときにも、熱く根付いています。
エルバで行われているイベントは、セールスパートナーとの友好的な関係や、豊かな協力関係を確かなものにしてくれています。
ファンコミュニティーとのダイレクトコンタクトは、世界中のファンによって書かれたウェブサイトやゲストブックを通してはぐくまれてきました。

 

TODAY
現在、KOZIOL社の>>Ideas of friends、は、”楽しい毎日のためのクリエイティブなギフト”というブランドを表すものとなっている。
陽気な未来を形作る"のモットーの下、エルバにいる私たちは、デザインに対する情熱を感じながら、明日を楽しみにしています。